成田山書道美術館〜収蔵優品展 篆・隷・楷・行・草・仮名-書体をめぐる書の表現〜
2025年2月から月1回ペースで「目習いレッスン」を始めました。
実際の書作品を自分の目で観て学ぶことを目的に、書道関連の展覧会を訪れる試みです。
今回はその第二回目として、成田山書道美術館で開催中の展覧会「収蔵優品展 篆・隷・楷・行・草・仮名-書体をめぐる書の表現」を訪れました(開催期間:〜2025年4月20日まで)。
その中でも特に印象に残ったのが、明治・大正期を代表する書家・西川春洞(にしかわ しゅんどう)の作品です。本記事では、展示作品の感想とともに、西川春洞という人物やその書風の背景についてご紹介します。
【公式サイト】https://www.naritashodo.jp/?p=12091
西川春洞とは
簡単な略歴
西川春洞は1847年に生まれ、1915年に没した書家で、江戸末期から明治・大正と激動の時代を生きました。
現代の漢字書道の基盤は、春洞と日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)の2人によって築かれたと言っても過言ではありません。彼らは、それまで江戸で流行していた書風とは異なる、新しい表現を模索しました。
展覧会で印象に残った作品
展示作品は撮影禁止のため、詳細は成田山書道美術館の公式Instagramをご参照ください(春洞の作品は複数投稿の1枚目に掲載されています)。
明治39年に書かれた沈周「安居歌」の一節を隷書で表現した作品です。力強くも繊細な筆致で、堂々たる隷書の中に独自の“ゆらぎ”や“ゆとり”があり、その風合いに心を奪われました。
この作品は2階に展示されており、3月24日からの展示替え後も引き続き鑑賞できるようです。ぜひ会場で直接ご覧いただきたい一作です。
明治期の書道界の変革
春洞の時代背景を語るうえで欠かせないのが「明治維新」です。
それまで江戸期の日本では、王羲之など唐風・宋風の書が主流でした。巻菱湖(まき りょうこ)に代表されるような、細身で流麗な書風が好まれていました(現代でも将棋の駒の字形にこの書風が使われています)。

しかし明治に入り、清朝との文化交流が活発化すると、大陸の書風、とりわけ北朝楷書が日本に伝わり、書道界に大きな変化が起こります。
日下部鳴鶴は鄭羲下碑(ていぎかひ)などの北朝楷書を臨書し、新しい様式を築いていきます。一方で春洞もまたこの流れに乗りつつ、篆書や隷書といった書体にもその精神を展開した点に個性が見られます。


春洞が学んだ書法と影響
西川春洞は、清の書家・楊沂孫(よう ぎそん)、徐三庚(じょ さんこう)、趙之謙(ちょう しけん)らの書風を好んで学んだとされています。

とくに隷書や篆書において、清朝の書法を現代的に昇華させたような味わい深い表現が彼の作品には見られます。春洞の書は、ただ古典に倣うのではなく、そこに独自の美意識を加えることによって成立しているのです。
いくら芸術性豊かな人であっても、急に自己流のオリジナルを創り出すことは難しいでしょう。音楽や絵画であっても同様ですが、書道もまた“歴史を知らずして自己流に走るなかれ”という分野でもあります。今回の展覧会でも、近代書家の作品とともに、それぞれの書体の古典が並んで展示されており、創作と古典の関係性を再認識することができました。
春洞門七福神と豊道春海
春洞の門下には実に2000人以上の弟子がいたとされ、なかでも優れた7名は「春洞門七福神」と称されたそうです(なんとも粋な呼び名…)。
その中の一人、豊道春海(ぶんどう しゅんかい)は天台宗の僧侶でもあり、「楷書10年」と言われるほど、基礎力を徹底的に磨いた人物です。彼の書は、どの文字にも完璧なバランスが感じられ、特に看板文字や題字などで今も目にする機会が多いです。
たとえば「城南信用金庫」「日光山輪王寺」「久月(ひな人形の老舗)」などの文字は豊道春海の筆によるもの。

ちなみに、私が小学生のときに初めて書道を習った先生が、この豊道春海の弟子でした。僧侶でもあるその先生はとにかくパワフルで、楷書にとても厳しい指導をされていたのを覚えています。


成田山書道美術館は庭園も楽しめる豊かな美術館です。

成田山書道美術館は、展示内容の質の高さはもちろん、美しい庭園や筆魂塚なども見どころです。自然と文化が調和した、心落ち着く美術館です。
次回の目習いレッスンは「篆刻美術館」へ。レポートもまたお楽しみに!
関連リンク
成田山書道美術館公式サイト:https://www.naritasan.or.jp/shodo/
成田山書道美術館Instagram:nstagram.com/naritasanmuseumcalligraphy/
過去の目習いレッスンレポート:大東文化大学書道科 卒業制作展(2025.03.03)